私は、大学生時代から10年日記をつけています。
今日の日付のページを開くと、縦に10年分の5月18日が並んでいます。
年数を重ねるほど、過去の蓄積分が増え、日記を開くのが楽しくなります。
でも、最近気づいたことがあります。
「本当のことなんて書いてないな」と。
日記に書くことは、大体2つ。
一つは事実。
もう一つは考えたこと、感じたこと。
事実は、違和感はありません。
でも、考えたこと、感じたことは、自分が覚えている感覚と、書いてある言葉や文章との間に距離を感じることがあります。
「XXXで嬉しかった」と書いていたとします。
確かに、「嬉しい」に分類されるような感情があったことは思い出します。
ただ、嬉しいと言っても、わくわくする高揚感なのか、じんわり暖かい感じなのかでは、だいぶ違います。
「嬉しい」という言葉と、実際に私が感じた感覚とは結構遠い、と気づいたのです。
自分が感じたことを表現するとは、意外に難しいことなのです。
組織開発や、リーダーシップ開発において、フィードバックは欠かせない手段です。
組織の変化促進のためにフィードバックを活用するようになったのは1950年代といわれ、歴史はかなり古いのです。
ただ、フィードバックの導入を躊躇される企業様は、今でも少なくありません。
検討段階で、よく聞かれることがあります。
「部下が本音で回答するでしょうか?」、というのもその一つです。
それは、、、、
しないでしょう。
本音など、そう簡単に回答できませーん 笑
まず、部下が上司に強く何かを思っていたとして、言って得をするイメージが持てない。
まして、ネガティブなことが少しでも入ろうものなら、被害をうけるリスクは高い。
でもそれ以前に、自分の「本音」など、自分でも言葉にできるほど認識している事の方が、稀有だからなのです。
「本音」が分からないため、回答は大抵「評論」「評価」になります。
「XXさんは指示が明快だと評判です」とか、
「もう少し、権限委譲してほしい」なんてね。
仮に上司が、部下にこのような評価をうけ、「反応的に」行動を変えたとします。
この上司は、部下から信頼されるでしょうか?
この上司と部下は、敬意をもってフィードバックを伝えあえる関係性になるでしょうか?
多分答えはNOです。
一方的に伝えた「評論」「評価」に、一方的に反応しても、信頼関係や、相手を尊重する気持ちは醸成されません。
むしろ、相手からの評価をお互い気にして、関係性は更に表面的、評価的になっていく一方です。
フィードバックは、実施すれば本音が出るものではありません。
フィードバックは、伝える側と受ける側が、協力して本音を探す作業なのです。
かつ、受ける側の上司が部下の本音を探す作業ではなく、部下が自分の本音を探す作業なのです。
上司は、部下が書いたフィードバックをいったん部下に戻し、改めて耳を傾けるプロセスが必要です。
「評論」「評価」の裏にある、部下の気持ちや感じたことを、言葉で表現できるまで部下自身が認識できるように。
立教大学経営学部の、中原淳教授。
「大人の学びを科学する」というテーマで、人材・組織開発の研究をされています。
中原教授は、フィードバックは「ガチ対話」とセットで、意味を持つ、としています。
フィードバックで得た結果そのものは、単なる情報である。
その情報を基に、
「あなた」が表現したかったことを、他の言葉で話してくれませんか?
今改めて、「あなた」はどう感じていますか?
このフィードバックは「あなた」にどんな価値がありましたか?
このデータは、「あなた」にどう見えますか?
など、上司と部下の現場での、逃げも隠れもできない「ガチ対話」により、情報が双方にとって意味を持ち、目的に向かった行動が促される、という事です。(※)
「ガチ対話」により、部下が自分の言葉で気持ちや意見を語ったら、「評論」「評価」があなたへの要望へと変わったら、それこそが部下の本音でしょう。
そして、本音の探求を共にしたプロセスからは、信頼や敬意という嬉しいオマケもついてくることでしょう。
でも、「ガチ対話」、オンラインではなかなか難しそうですよね・・・
もう少し、直接会えるまで、突っ込みすぎず円満にしておいたほうがいいかもしれませんねぇ・・・笑
あと、もう少しの我慢ですよね、きっと。(祈!)
※参考文献
「フィードバック入門」
「サーベイ・フィードバック入門」
中原淳(著)